一心正念にして
直ちに来れ
我よく護らん
     善導『観経疏』(真宗聖典 455頁)

「君が思っているよりももっと君は深い」

深くて暗い。これはなにも男と女の間だけではない。
中国の善導大師(613~681)は、人生を深く歩もうとするとき、二つの河の前に僕たちは立たされるのだ、といっている。
二つの河とは、一つには水の河、これはむさぼりの河。もう一つは火の河、これはいかりの河である。この二つの河に翻弄されているのが僕たちなのだ。二つの河は普段はあまり問題にならない。それどころか、欲望があって怒りがあって人間は成長するのだとさえ思っている。しかしいったんその河を渡ろうとすると、あまりの深さに足がすくんで震えてしまう。 親鸞はいっている。

凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむことおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。

「私は何のために生きているの」「僕は何をすればいいんだ」 あれがほしい、これがほしい、欲しいのは自分を満足させるためだ。欲しい心のために自分が苦しんでいる。どういうことなんだろう。人と比べてねたんだり、そねんだり、他人と比較しないと安心できない、どういうことなんだろう。社会や学校の矛盾に腹がたち、大人たちの無神経なことばにいらいらする。なんとなくいらだってしょうがない、なんとなく不安だ。なんとなく空しい。でもどうにもならない。僕たちがすこし人生に真面目になろうとすればそんな自分がみえてくる。これをなくすなんて、無理な相談である。だってそんな現実が僕たちの生きている場所なんだから。それが二つの深い河なのだ。じゃ、どうしたらいいんだろう。
善導はいう。この二つの河の中にたった一つ白い道がある。それはかすかで今にも二つの河にかき消されてしまいそうだ。でも決してなくなることのない道、それが「汝、一心正念にして直ちに来たれ、我よく護らん」という呼びかけだという。
君が絶望しようとも、絶望できない君がもっと奥にある。君よ。そんな自分を見つけたかったら、あれこれ考えずにまっすぐここに来なさい。そんな君の願いを大事に育てよう。かすかな白い道をどこまでも歩けるようにと。